大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

津地方裁判所 昭和31年(ワ)138号 判決

主文

参加原告の請求を棄却する。

訴訟費用は参加原告の負担とする。

事実

第一  当事者双方の申立

参加原告は「被告は別紙その一図面表示のイロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソツネナラムウヰノオクヤマケフコエテアサイの各点を結ぶ線で囲まれた地域(以下「本件係争地域」という。)が参加原告所有の三重県一志郡美杉村下多気一、二五一番地の一山林一畝六歩、同所一、二五一番地の三山林三反四畝三歩、同所一、二五一番地山林四畝二二歩であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、

被告は「参加原告の請求を棄却する。訴訟費用は同原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二  参加原告の請求原因

一、本件山林三筆はもと訴外橋本新吾の所有で、その子訴外橋本庄太郎及び孫訴外橋本庄平が順次相続によりその所有権を取得し、ついで参加原告が昭和二八年五月一〇日一、二五一番の一、三を買い受け、更に一旦同年一一月四日脱退原告に売り渡したが、昭和三五年一〇月四日再び買い戻し、一、二五一番は訴外橋本庄平から昭和二八年五月ごろ参加原告が買い受け、脱退原告に売り渡したが、便宜中間、省略の方法により脱退原告に訴外庄平から同年一二月三日移転登記をなし、これを更に参加原告が昭和三五年一〇月四日買い受け、それぞれその旨の所有権移転登記を受けその所有権を取得した。そして右三筆の地域は原告申立の項記載のとおりである。

二、これを現地について言えば別紙その二図面表示のイワ線の南が被告所有の一、三八四番山林、ワカC線の南が訴外海住源七所有山林、カレC線の東が訴外北川鈴子所有山林、クレ線(火防線)の北東は被告所有の一、三八五山林、ケク線の北西は訴外黒田伝三郎所有山林、ケイ線の西側B点の北東部分に被告所有の一、三八八番山林が存し、B点の北西部分が被告所有の一、三八九番山林である。そして本件係争地域は原告主張の三筆の山林である。このことは、甲第五号証(一志郡美杉村村図)甲第一五、第二四号証の各図面と対照してみれば明らかである。

三、然るに被告はこれを争い、右地域は自己所有地なりと主張し原告が昭和二九年八、九月ごろ右地域内の立木を伐採するや原告を相手取り損害賠償の訴を提起した。(昭和二九年(ワ)第一三二号事件、右事件は現在名古屋高裁昭和三二年(ネ)第二六一号事件として係属中)

四、よつて右地域が参加原告所有の本件山林に属することの確認を求めるため本訴に及んだ。

五、被告の主張に対し、被告主張の第二、三項の事実は一、三八六番及び一、三八七番山林が現に被告の所有であること及びその所有権取得に至るまでの経過事実は認める。その余は否認する。美杉村村図によれば一、三八六、一、三八七番山林は本件三筆の山林の西南方に位し、実際上も別紙その二図面表示のケイ線に接しその西側に存するのである。

加えて被告自身右一、三八六、八七山林がどこに所在するのか明らかに知つていなかつたことは甲二七号証(仮処分命令申請書添付図面)によつても明らかであり、当初被告は本件係争地域を一、三八五番山林と信じていたのである。

同第四項の主張は争う。

第三  被告の答弁

一、参加原告主張事実中本件山林三筆につき脱退原告ないし参加原告がその主張の日ごろ売買名下に所有権移転登記を受けたこと、別紙その二表示の隣接地番の位置関係については本件係争地域が本件山林三筆にあたること(換言すれば一、三八六、八七番にあたらないこと)を除いてその余の位置関係が原告主張のとおりであること及び参加原告主張のとおりの別件訴訟が係属中であることは認める。その余は否認する。原告主張の本件係争地域は被告所有の一、三八六番山林三反七畝一〇歩及び一、三八七番山林八畝二三歩であること後記のとおりである。

二、参加原告主張の山林三筆はいずれも登記簿上において存するだけで、現地がどこであるか全く不明の山林である。

本件係争地域は被告所有の一、三八六及び一三八七番山林であるがその由来を述べれば次のとおりである。

先づ、一、三八六番山林は明治二七年九月二四日以前に被告の先々代が訴外海住長助から買い受けたのを被告の実父訴外亡田上実三が相続により所有権を取得し、大正六年一〇月同人死亡により被告の兄訴外田上実二が家督相続により所有権を承継し、ついで大正九年一月二八日同人死亡により被告が選定相続人としてその所有権を承継取得したのであり、その範囲は別紙その一図面表示の中尾の東側部分である。被告は昭和四年五月八日右山林内の杉立木(樹令五〇年以上)九〇〇本を訴外田上幸之助に売却し、同年九月一九日右山林内の檜(樹令五〇年以上)五七三本を訴外角谷直助外一名に売却し、右山林内の立木が伐採搬出された後一、二年後にその伐採跡を整理し杉檜苗を植林し、爾来下刈、間伐を続け、現在においては三〇有余年生の杉檜合計一、五〇〇本以上が生育している。

また一、三八七番山林は別紙その一図面表示の中尾の西北側、被告所有の一、三八五番と接する範囲に存在し、被告が昭和四年一〇月四日訴外橋本庄平より買い受け、翌五日その旨の所有権移転登記を了し、爾来被告において管理支配して来たのである。

以上のとおり本件係争地域は中尾を境にして東南側は一、三八六番、西北側は一、三八七番でいずれも被告所有山林である。

三、参加原告主張の山林三筆は前述したとおり登記簿上にのみ存する山林であり、現地がどこであるか判明しないのである。現に右山林の参加原告前主訴外橋本庄平は右山林がどこに存するか全く知らず単に右山林の権利書を所持していたので、所在不明の事実を告げて参加原告に売却したのである。

ところが参加原告は、甲第五号証(美杉村村図)を閲覧し、これに着想して本件係争地域を右三筆山林なりと主張して本訴に及んでいるのであるが、被告所有の一、三八五番山林は別紙その一図面表示のとおり係争地域に接し東北方に位置しているのに、(右事実は当事者間に争がない。)右村図によれば同図面表示のレク線(火防線)を越えて南方山道イカ線に接するごとくに記載されていることからしても、右村図が現地と符合していないことは明瞭である。そして右村図の位置関係からすれば本件山林三筆は一、三八五番の東方に存する如くに記載されているから、当事者間に争のない一、三八五番の前記位置を基本として考えるとその東方に存しなければならない筈であつていずれにしても現地と右村図は符合していないのである。従つて右村図を唯一の賀料として右三筆の山林が本件係争地域にあたるとなすのは参加原告の勝手な推測という外はない。

四、仮りに本件係争地域が本件三筆の山林であるとすれば次のとおり取得時効を主張する。

(一)  本件係争地域中被告主張の一、三八六番山林部分(前記中尾の東南側部分)は前記のとおり被告の実父訴外田上実三が明治二七年九月二四日家督相続により善意無過失にて所有の意思を以つて占有を始め、爾来平穏且つ公然と右地域を支配して来たから、明治三七年九月二四日の満了により取得時効が完成した。仮りに占有の始めに過失が存していたとしても大正三年九月二四日の満了により取得時効が完成している。

仮りに右主張が認められないとしても、被告が右地域内の立木を売却処分した昭和四年五月八日を起算日とすれば昭和一四年五月八日の満了により(予備的に昭和二四年五月八日の満了により)取得時効が完成している。

(二)  つぎに被告が一、三八七番山林にあたると主張する部分(前記中尾の北西側部分)は被告が昭和四年一〇月四日、右地域を訴外橋本庄平から一、三八七番山林として買い受け、爾来所有の意思を以つて支配して来たから昭和一四年一〇月四日(予備的に昭和二四年一〇月四日)の満了に取得時効が完成している。

第四  証拠(省略)

理由

一、参加原告主張の本件山林三筆がもと訴外橋本新吾の所有であつたのを参加原告主張のとおりの経過で転々承継され現に参加原告所有名義に移転登記手続が経由されていること、並びに被告主張の一、三八六番及び一、三八七番山林が被告主張のとおりの経過で現に被告所有名義に移転登記が経由されていること以上の事実は当事者間に争がない。

二、よつて本件係争地域の所有権の帰属につき以下審按する。

(一)甲第五号証(村図)と現地の隣接地番の位置関係からの考察

本件係争地域の隣接地の位置関係については別紙その二図面表示のとおりイワ線の南側が被告所有の一、三八四番山林、ワカC線の東側が海住源七山(一、二五二番山林)、レカC線の東側が北川山(一、二五〇番山林)レク線(火防線)の北東側が被告所有の一、三八五番山林、ケク線の北西側が黒田伝三郎山、ケイ線の西側に被告所有の一、三八八番山林(但しケイ線に隣接しているかどうかについてしばらく措く。)が存し、右一、三八八番山林はB点において被告所有の一、三八九番山林と接していること以上の事実は当事者間に争がなく、右事実と検証の結果により認められる係争地域附近の現況と成立に争のない甲第五号証(村図、但し参加原告本人尋問の結果によれば右村図中所有者の表示は参加原告が書き入れたもので原図には所有者の表示は存していないことが認められる。なお右村図は旧土地台帳法所定の法務局備付の土地台帳附属図面であるかどうかは明らかではないが、参加原告本人尋問の結果により成立を認め得る甲第四号証によれば右村図は美杉村役場備付の図面であることが認められるから、本件のような土地紛争事件については判断の資料となることは言うまでもない。但し右村図に公信力はないから右図面の正確性の全部ないし一部をくつがえすに足る反証が存するときは、右図面の信憑性はそれだけ減殺されることになる。)と比較対照してみると、右村図は先づ一、三八五番山林がイワ線にまで接している点において現地と相違しているから、右村図中一、三八五番山林部分を除外して考えてみると北川山及び海住源七山は右村図どおりの位置に存するからこれを基本として考えればレカ線の西側部分に隣接して右村図に表示されている一、二五一番一畝歩が存していると考えられるが、一方において被告所有の一、三八九番、一、三八八番がB点において互に隣接していることは前記のとおり当事者間に争のない事実を基本としこれと村図を対照するとケイ線の西側は被告所有の一、三八八番であり、その東側に被告所有の一、三八六番及び一、三八七番各山林が存するものと考えられる。

そしてこの見地から考察を進めて行くと、本件係争地域内には一、三八六、八七番及び一、二五一番各山林が併存していると考えるのが自然であり、右各山林が互に接する地点は検証の結果(第一、二回)によればワ点からイ点に向つて走る中尾の線であると推測することが可能となる。

村図と現地の隣接地との対照のみから判断すると右のような推定が成立するわけである。

((但し右村図には単に一、二五一番山林一畝歩とのみ表示されているから一、二五一の一及び三が右図面に当然に包含されているかどうかは必ずしも明らかではない。この点に関し証人北川正浩の証言、右証言により成立を認め得る甲第一五号証、参加原告本人尋問の結果の一部によれば、甲第一五号証の原図は訴外北川正浩の亡父が作成した図面であり(恐らく前記村図を写したものと思はれる。)右図面中一、二五一番の左側の一、二五一の一ないし三の表示は亡父が書き込んだものであつて原図にはその表示はなかつたことが認められ(証人横山石太郎の証言により成立を認め得る甲第二四号証も右と同様の図面であろう。)

然し一、二五一の一ないし三は元番たる一、二五一番から分筆されたことは間違なかろうから、村図中一、二五一番と表示されている地域に一、二五一の一及び三が含まれているという推定は可能であろう。なお一、二五一の二は前記北川正浩証人の証言によれば北川山に含まれ、北川山は一、二五〇番と一、二五一番の二であることが認められる。))

なおこれを面積の点から見ても、右各山林の公簿上の反別の合計は本件山林三筆が約四反、一、三八六、八七番が約四反六畝合計九反六畝であるのに対し実測面積は約一町六反であることが窺知できる(昭和三一年一〇月二二日付原告準備書面添付図面)から本件係争地域内にこれらの山林が併存するという推定は面積の点からも言えることになる。

(二) 参加原告が本件山林三筆を買い受けるに至つた経緯

(1)  成立に争のない甲第一ないし第三号証によれば、一、二五一番の一及び三山林は明治二一年八月二九日訴外橋本新吾が他から買い受け取得登記をなし、ついで明治四二年一〇月一三日家督相続を原因としてそれより約一六年後である大正一四年一二月二八日訴外橋本庄太郎が相続登記をなし、ついで昭和三年六月三日家督相続を原因としてそれより約二五年後である昭和二八年六月一日訴外橋本庄平が相続登記をなし、即日参加原告に移転登記がなされ、同年一二月二日付で脱退原告に売り渡された後に前記のとおり参加原告が再び買い戻したこと、一方一、二五一番山林は元地目は畑四畝二二歩であつたが昭和五年七月七日山林に地目が変更されたこと、右山林も明治二一年九月一九日訴外橋本新吾が取得登記をなし、昭和三年六月三日家督相続を原因として訴外橋本庄平のため昭和五年七月七日相続登記がなされた後、同年七月八日訴外橋本たにについで昭和二八年一月一九日訴外海住源七にそれぞれ移転登記がなされ、同年一二月三日再び庄平所有名義となり、そのころ脱退原告所有名義に移転登記がなされていること、以上の事実が認められる。

(2)  右に認定した移転登記の経過事実に、成立に争のない甲第六号証の一、第九号証の一、二、第一六、一七号証、第一九ないし第二一号証、証人横山石太郎(第一、二回)、同橋本庄平、同矢倉正一、同横山道児の各証言並びに参加原告被告各本人尋問の結果右参加原告本人尋問の結果により成立を認め得る甲第二五号証の二、第二八号証を総合すれば元来訴外橋本新吾は本件三筆の山林の外に数筆の山林を所有していたが、現地の管理、植林、手入れなどは余り行わず、その傾向は、その子の庄太郎の代に至つて益々甚だしくなり、大正一四年一二月三重県農工銀行から一、八〇〇円余の借財をなし、一、二五一番の一及び三に抵当権を設定するに至つてからは全く現地管理を怠り、そのため訴外庄平の代に至つてからは、本件三筆の山林の現地がどこにあるか正確には分からないという状態になつてしまつた。(前記農工銀行の抵当債務はその後訴外古田治三郎が昭和一二年に代位弁済を了した。)たとえば一、二五一番山林については訴外庄平は前記のとおり訴外橋本たにについで訴外海住に移転登記をしているがこれは売渡担保の趣旨でなされたものであるが、当時庄平は右売渡担保の目的とした山林は通称かまが谷にある山林と思い込んでいた程であつて、本件三筆の山林につき所有者としての占有管理はもとよりのことその所在場所についての正確な認識を欠いているという有様であつた。

ところで訴外庄平が家督相続による相続登記を二五年余に亘つて放置していた昭和二八年五月ごろ訴外庄平が現地は全く不明な山林三筆の権利証を所持しているという話を訴外小林某を介して聞知した参加原告は前記村図及び甲第六号証の一(山林見取絵図帳)により係争地域一帯が右山林に該当するとの想定の下に、右係争地域を時価一二〇万円は下らないと評価し、右権利証を安く買い受け、右権利証を登記洩れを理由に(当時本件係争地域は後記のとおり永年に亘つて被告が占有管理しており、一般に田上山と信じられていた)被告に高く売りつけんと企図し、訴外庄平から右三筆を代金三五、〇〇〇円で買い受け、そのころ被告に対し右権利証の買受方を接衝した。被告は橋本山は既に被告が買い受けており、今更自己所有地につき権利証だけ買う理由がないと拒絶し、種々の交渉が両者の間に再三行われたが遂に右売却交渉は値段の点で折合がつかず不調となり、その後まもなく原告は右三筆の権利証を脱退原告に代金一一〇万円余で転売した。(その後参加原告は脱退原告から三〇万円で右権利証を買い戻し、且つ脱退原告から受領していた売却代金一一〇万のうちから一五万円を訴外庄平に支払い、結局参加原告としては六〇万円余を利得していることになる。)

以上の事実が認められ、右認定の趣旨に反する甲第二一号証及び参加原告本人尋問の結果部分はたやすく信用し難く他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

(三) 一、三八七番山林を被告が買い受けた経緯及び本件係争地域の占有管理状況

(1)  前顕甲第六号証の一(乙第四号証の二と同一明治三五年四月作成にかかる見取絵図帳)によれば、橋本新吾山は田上実三山にはさまれて存する如く図示されており、右図面の上らんの一、三八五番とある表示からすれば、右田上山と橋本山に囲まれている地域は一、三八五番山林であることは明らかであるから、右図面からすれば本件係争地域内に橋本山が存していたことは明白である。

(2)  成立に争のない甲第九号証の一、二、第一〇ないし第一二号証の各一、二、第一三、第一八号証、第二〇、二一号証、乙第二号証、第三号証の一、二、第七号証の一ないし八、一〇、一一、一二、乙第八号証の一、二、第九号証、第一〇号証の四、五、第一一号証の三、五、六、証人橋本庄平、同富田鉄蔵、同富田広吉、同古田為蔵、同前田治郎、同前川九助、同田上幸之助、同小西昌郎、同海住源七、同岩本末吉、同中北浜助、同中川吉松、同角谷直助、同古田茂一、同横山道児、同桓本市三、同中川佐太郎の各証言、右証人古田為蔵の証言により成立を認め得る甲第二五号証の一、証人田上幸之助の証言により成立を認め得る乙第五号証、証人角谷直助の証言により成立を認め得る第一三号証、参加原告本人矢倉定尋問の結果、被告本人田上俊三尋問の結果、右被告本人尋問の結果により成立を認め得る乙第一号証の一、二、(但し同号証の一中官署作成部分の成立は当事者間に争がない。)前顕甲第二号証及び弁論の全趣旨から真正に成立したものと認められる甲第七号証検証の結果(第一、二回)を総合すれば、

前記橋本新吾山は通称茶山と呼ばれ或はしゆろ山とも呼ばれて中尾の北西側の大部分がこれに属していた。前記農工銀行に抵当権を設定するに際し抵当の目的として立木登記ずみの立木(一、二五一番の三山林二〇年生三五〇本)も右の辺に生立していた。一方中尾の東側は従来から田上山として被告主張のとおり明治二七年ごろ以降被告家において占有管理していた。

そして昭和四年一〇月右橋本山全体を一、三八七番山林八畝二〇歩なりとして訴外橋本庄平から被告が買い受け、それ以後は係争地域一帯は被告所有山林と目されるに至り、それ以来本件紛争が生ずるまで二〇有余年に亘り、本件係争地域が田上山であることについては何人も異を唱えるものなく森林組合の原簿にもその旨登載され被告は昭和四年ごろ中尾の東側一帯に生立する立木(杉約九〇〇本、檜約六〇〇本)を他に売却処分をしたり、立木の間伐ないし植林をなし、現在係争地域に生立している立木はすべて被告が植林したものであつた。

以上の事実が認められ、右認定の趣旨に反する証人橋本庄平の証言部分及び甲第九号証の一、第二〇号証の記載部分はたやすく信用し難くまた原本の存在及び成立に争のない甲第二七号証によれば、被告は本件係争地域を一、三八五番山林なりとして仮処分申請をしたことが認められるけれども、被告本人尋問の結果によれば右仮処分申請が緊急を要したため従来の資料等の正確な調査をなさないまま一、三八五番山林として申請に及んだことが認められるから、右事実は前認定をくつがえすに足りないし、他に右認定を動かすに足りる証拠は存しない。

(四) 右認定の事実によれば前記村図からすれば中尾の東側に橋本山が、西側に田上山があるべきであるが、現実には中尾の東側が被告所有の一、三八六番山林であり、西側が橋本山であることになる。前記村図はその限りにおいて誤つていることになろう。

そして右橋本山は一、三八七番山林一筆として訴外庄平から被告に売り渡されたことは前記のとおりであるが、実際には一、三八七番山林の外に本件山林三筆が含まれていたとみるべきであり(橋本山は中尾の北西側にしか存せず係争地域内に本件山林三筆が存するとの前記認定事実の上に立脚して推論すればかく解せざるを得ない。)現実の売買は橋本山全部につきなされたのであるから本件山林三筆の所有権も右売買により既に被告に移転しているわけであり、ただ売買目的物の表示につき誤りがあつたことになろう。(この点につき証人古田茂一、同古田為蔵、同中川吉松の各証言中には一、三八七番の外に一、二五一番、同番の一及び三も一、三八七番とは別個のものとして一、三八七番が売買されるとき訴外庄平から被告に売却された趣旨の証言部分が存し、右証言部分が若し真実であるとすれば、本件山林は現地についてもまた売買目的物の表示の上においても既に適法に被告に売り渡されていることになる。)

かくていずれにしても本件山林三筆はいわゆる登記もれの山林(本来被告に訴外庄平から移転登記すべき山林にしていまだその登記手続が未了の山林)と解するのが相当である。(このような事例は成立に争のない乙第七号証の九、第一〇号証の三、第一一号証の二、四、証人山本秀蔵同富田広吉の各証言によれば、訴外山本秀蔵が訴外北川鈴江に売却した一、二五〇番山についても一、二五一番の二が登記もれになつていることが判明し、一、二五一番の二を訴外山本から訴外北川に移転登記した事実の存することが認められる。)

このようにいわゆる登記もれの山林につき売主が登記面上未だ自己所有名義に残存していることを以つて他に二重譲渡したのが本件紛争の真相であると考える。

三、以上に認定した諸事実と本件口頭弁論の全趣旨を併せ考えると、参加原告は現地の全く不明な山林の権利証を、若し現実に存するものとすれば時価一二〇万円を下らないものと評価した上、永年に亘つて田上山と信ぜられ何人からも異論のなかつた本件係争地域を(右地域はもとその一部が橋本山であり、これを被告が買い受けたことのあることは参加原告も諒知していたと思われる。)前記村図からして本件三筆の山林に該当すると想定し、結局被告において登記を受けていないことを奇貨とし、右権利証を被告ないし他の者に高く売りつけんとする意図の下に右山林の権利証(参加原告は現実の山林を買い受けたというよりは権利を買い受けたと表現した方が事案の真相に適切であろう。)を三五、〇〇〇円という安い値段で買い受けたものであつてこのような者は信義則に照らし、民法第一七七条にいわゆる登記の欠缺を主張し得る第三者にはあたらないものというべきであり、従つて被告は登記なくして本件係争地域中本件山林三筆部分の所有権を参加原告に対抗し得るものと考える。

蓋し登記もれの事実を察知しながら、これを奇貨として権利証を安く買い受け、これを高く売りつけて利得を得ようと計る者に対してまでも法が正常な取引をなした者に与える民法第一七七条の保護を与えることを要求しているとは考えられないからである。(なお弁論の全趣旨に徴すれば被告は訴外庄平から橋本山全部を一、三八七番として買い受けた旨主張しているものと解されるから右主張にはもし橋本山が一、三八七番のみでなく本件山林三筆を含むものとすれば、これをも買い受けた旨を主張しているものと解しても差し支えなかろう。)

四、以上の次第で、本件係争地域は本件山林三筆と被告所有の一、三八六、八七番を併せ含んだ地域であり、本件山林三筆は既に被告が訴外庄平から買い受けその所有権を取得しているのであるから、結局本件係争地域は参加原告に対する関係においてはその全部が被告の所有というべく被告の時効取得の主張につき判断するまでもなく、本件係争地域が参加原告の所有であることを前提とする参加原告の本訴請求は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

別紙

昭和三一年(ワ)第一三八号現場検証見取図

〈省略〉

別紙

昭和三一年(ワ)第一三八号事件

昭和三七年一一月九日施行

検証見取図

〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例